鈴木大拙『禅とは何か』

宗教とは何か。そもそも日本においてどの程度の人が宗教意識を持っているだろう。「葬式仏教」という言葉があるように、冠婚葬祭や観光以外で寺を訪れる人は少ないだろう。クリスマスにはケーキを食べ、年が明けると寺社に初詣をする日本人は、良くいえば宗教に寛容であるが、悪くいえば宗教に無頓着である。

かく言うわたしも特定の宗教を信じているわけではない。高校は仏教系だったが、それは偶然だった。大学はキリスト教系であったが、いわゆるミッション・スクールではなかったから、教会へ通うということはなかった。

しかし、講義で贖罪思想に感銘を受けるということはあったし、精神的に不安定なときに聖書を開くと気持ちが落ち着いた。だから、キリスト教にはずいぶん親しみを持ったといえる。

一方、仏教には「難解」というイメージしか持たなかった。それまでに蓄積された嫌悪感のせいかもしれないが、「色即是空」のような抽象的なことばかり聞かされては親しみの持ちようがない。

その点、本書はまず「宗教とは」「仏教とは」から論じており取っつきやすい。しかも、もとが講演の速記だからか、昭和初期の本にもかかわらず、とても読みやすい

大拙がとくに強調しているのは「宗教経験」と「社会意識」である。前者は大拙の親友である西田幾多郎との関係でも重要とされる。とはいえ、「宗教の本体を形成する最も重要なる要素」「実に宗教をして可能ならしむるものは、この個人的宗教体験であ」る(12ページ)とされているものの、実はこれは他人から説明されて理解できるものではない(し、またそうあるべきでもない)ことが明らかにされ、読者は宙に投げ出される。しかし、そのことを最も詳しく論じている第二回第三講は、何度読んでも面白い。

神秘ということは、(中略)了々として雪の響き、雨の声を聞くことができるのであるが、しかもそれを現すことができない(199ページ)。

もちろん、私はこの意味を深く理解できたわけではないが、何気ない音や風景に、そのもの以外の “何か” を感じたことはある。宗教の面白さは論理では説明できないところにあるのだろう。

「宗教経験」が個人的なものとすると、それと対になるのが「社会意識」である。大拙は釈迦が当初自分だけが救われればいいと考えていたのを弟子に促されて他の人へ説法することにしたというエピソードを再三引用している(46・58ページ)。そして、自分一人が救われればいいとする小乗仏教(羅漢)が、禅を含む大乗仏教では自分だけでなく社会をも救う菩薩を理想とするように変化してきたと強調している。宗教経験を重視するあまり、ともすれば個人主義に傾きがちな状況に大拙は警鐘を鳴らしたといえるし、彼が海外へ禅を普及するのに熱心だったのも、この「社会意識」のためだったように思われる。

最後に、大拙近代批判を取り上げておきたい。大拙は近代の弊害として、「人間が機械をこしらえて、いい顔をしている間に、その人間が機械になってしまって、その初めに持っていた独創ということがなくなってしまう」(100ページ)ことを挙げている。そして、そこから逃れるには、「常に独自の世界を開拓して、そこに創造の世界、自分だけの自分独特の世界を創り出して行く」宗教によらなければならないと主張している。大拙が宗教経験を重視したこと、そして近代の源である西洋に禅を普及することに熱心だったこと、これらはすべてこの近代批判に由来するように思われる。

なお、本書を読むにあたって、とくに前提知識は必要ない。ただし、浄土真宗やキリスト教(とくに中世ドイツ神秘主義)を知っていると読みやすいだろう。

 

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)