渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』

本書は、ルネサンス期フランス(16 世紀)に活躍した 12 人の生涯を紹介するものである*1。その中で、高校世界史で取り上げられる人物としては、ブルボン王朝の初代アンリ 4 世イエズス会*2の創始者イグナチウス・デ・ロヨラが含まれている。あるいは、一般には、ノストラダムスのほうが興味を持たれるかもしれない。

しかし、本書の中心は、そのページ数からいっても、また関連する人物の多さからいっても、ジャン・カルヴァンであろう。そして、カルヴァンの暗部を知ることは、「いま」のわれわれにとって決して無駄なことではない、むしろきわめて現代的な問題を提起しているように思われる。

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宗教改革の指導者としてマルチン・ルターと並び称されるカルヴァンは、しかしルターほど一般には有名でないように思われる。なんといっても、ルターは身命を賭して 95 ヶ条を門扉に貼りつけ、宗教改革を始めた人物である。それに比べると、ジュネーヴで神政を行った」というカルヴァンは地味な存在であるといわざるを得ない。

あるいは、かりにカルヴァンが取り上げられることがあったとしても、それはヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』との関連においてであろう。この社会科学の古典において、ヴェーバーカルヴァンの唱えた予定説がいかに資本主義発展の一因になったかを論じた。しかし、この場合でもカルヴァン生涯について触れられることはないように思われる。

「もしセルヴェにしてジュネーヴへ潜入すれば、断じて生きてはこの地を去らせまい」(J. カルヴァン*3

宗教改革のなかにある悪寒を起させるような、いらいらさせるような、暴君的なものの一切が、カルヴァンにある」(A. ディード)*4

カルヴァンの生涯中暗澹たる日は、セルヴェの死の日である。しかし、……死刑は、カルヴァンのみの特別な過失ではなかった。これは時代の過失であった」(E. ドゥメルグ)*5

カルヴァンおよびカルヴィニスム、またカルヴァンをかく硬化せしめた当時のカトリシスム、またその時代、これらに一切の罪はあるのでしょう。更に広く申せば、人間に罪があるのでしょう」(渡辺一夫*6

これらの引用はすべてカルヴァンがミシェル・セルヴェを火刑に処した事件(1553 年)に関するものである。セルヴェはスペイン出身の神学者で、三位一体や幼児洗礼を否定する過激な主張を行っていた。こうした教義はカトリックプロテスタントも共通して信仰している基本的な教義であったため、セルヴェは双方から批判されていた。

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しかし、本来、カトリックや世俗権力に対して信仰の自由を、すなわち寛容さを求めるところからスタートしたのがプロテスタントであった。事実、若きカルヴァン古代ローマの哲学者セネカの『寛容について』*7の註釈本を出版していた。

にもかかわらず、ジュネーヴで権力を握ったカルヴァンは、自らの思想に反する人物をことごとく断罪するという不寛容さを示すようになった。この背景には、ジュネーヴに対して激しい攻撃を加えていたカトリック*8から身を守るためには、プロテスタント内部での分裂を許すことができなかったからではないか、という見方を渡辺氏は示している。しかし、たとえそうであったとしても、カルヴァン寛容を求める立場から不寛容を強いる立場へと変化したことは批判されなければならないであろう。なお、本書の最終章は、途中までカルヴァンを支持しつつも、のちにその不寛容を批判してジュネーヴを逐われたセバスチヤン・カステリヨンの紹介に当てられている。この配置からも、渡辺氏の主張は理解できるであろう。

さて、「いま」のわれわれは、本書から何を汲み取ることができるのであろうか。

まず第一は、寛容の重要性である。ここでは当時のカトリックのように不寛容を貫いた場合がまず想起されるであろう。しかし、カルヴァンのように、当初寛容を求める立場だったのが、不寛容を強いる立場へと変化する場合もあることに、われわれは注意しなければならないだろう。

第二は、批判精神を持つことの重要性である。カトリックの不寛容を批判したカルヴァンも、そのカルヴァンが途中から不寛容に転じたことを批判したカステリヨンも、あるいは当時のユマニスム(ヒューマニズム)全体が、その後の近代の土台となったといえる。っして、このことからは、批判の中にその姿勢を正すものがあるならば、それを排斥せずに真摯に受け入れるという寛容さがやはり求められるであろう。*9

最後に、渡辺氏によるユマニスムの定義を引用しておきたい。

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[ユマニスムは] 人間が人間の作った一切のもののために、ゆがめられていることを指摘し批判し通す心にほかなりません。従って、あらゆる思想のかたわらには、ユマニスムは、後見者として常についていなければならぬはずです。なぜならば、あらゆる人間世界のものと同じく、人間のためにあるべき思想が、思想のためにある人間という畸形児を産むことがあるからです。[…] ユマニスムの <<反骨性>> というようなことが言われますが、ユマニスムは、批判のための批判に終始するものでもなく、臍曲りでもなく、また世をすねたところや、反抗的なところを看板にすべきものではありますまい。ユマニスムは、思想や制度に附き添う注意深い母親なのです。 *10

 

 

フランス・ルネサンスの人々 (岩波文庫)

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痴愚神礼讃 (中公クラシックス)

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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

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「常識」としての保守主義 (新潮新書)

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*1:わたしが最初に著者渡辺一夫を知ったのは、エラスムス痴愚神礼讃』の訳者としてであった。フランス語からの重訳であるにもかかわらず、名訳の誉れ高く、現在も「世界の名著」を経て「中公クラシックス」で入手可能である。しかし、わたしが読んだのは 1954 年刊行の岩波文庫であった。その旧字旧仮名遣いの岩波版も、来る 2 月に復刊される 予定 である。

*2:日本にキリスト教を伝来したフランシスコ・ザビエルロヨラの直弟子。なお、現ローマ教皇フランシスコは初のイエズス会出身教皇

*3:『フランス・ルネサンスの人々』p212

*4:『フランス・ルネサンスの人々』p220

*5:『フランス・ルネサンスの人々』p220

*6:『フランス・ルネサンスの人々』p220

*7:ラテン語原題は "De Clementia"。「セネカ哲学全集」(岩波書店)では「仁慈について」と訳されている。

*8:当時はカトリック側がプロテスタント側を大量に虐殺した「サン=バルテルミの虐殺」(1572 年)やドイツの「三十年戦争」(1618 〜 48 年)のように宗教間の戦争が絶えなかった。

*9:およそ主義・思想において、最初から完全なものはあるまい。むしろ、批判を受けとめ、それを取り込みつつ、弁証法的に発展するのが、主義や思想のあるべき姿ではないだろうか。しかし、現実の政治においては、しばしば主義や思想の動脈硬化が進行した。フランス革命におけるロベスピエールの暴走、共産主義における数々の逸脱行為(スターリン毛沢東らへの極端な個人崇拝、同じ共産主義者内での内ゲバなど)はあらためて言うまでもない。当初は気高い理念を掲げていた彼らの堕落にはカルヴァンの姿が重なる。しかし、フランス革命を批判した E. バークを「保守主義の祖」と仰ぐ保守ならば、その危険を免れるのであろうか? そうではないと極言したい。保守主義もまた自らに寄せられた批判に対して不寛容ならば、誤った路を突き進む可能性がある(それは本来の保守主義ではないだろうが、しかし保守主義共産主義者同様に堕落する危険があることは指摘されるべきだろう)。そして、それを「いま」批判している側もまた、無意識のうちに、敵と同様に不寛容な姿勢を取っていないかを常に自己批判する必要があろう。

*10:『フランス・ルネサンスの人々』p282