P.ヘイワース 『クレンペラーとの対話』

ベートーヴェンに「ミサ・ソレムニス」(荘厳ミサ曲)という曲がある。かの有名な「第九」と同時期に作曲された、ベートーヴェン晩年の大作である。

その「ミサ・ソレムニス」で名盤と言われているのが、クレンペラー指揮による録音であった。これがわたしにとってのクレンペラーとの出会いだった。

だからといって、わたしはクレンペラーの熱心なファンというわけではない。それは手元のCDを見れば一目瞭然である。というのも、バッハベートーヴェンしかないからだ。もし彼の熱心なファンならば、彼が若い頃に実際に会い、生涯にわたって恩師と仰いだマーラーがあって然るべきだろう。だが、わたしはまだ一度も彼のマーラーを聞いたことがない。

けれども、やはりクレンペラーは偉大だったと思う。たとえば、「ミサ・ソレムニス」をクレンペラーで聞いてから、ほかの指揮者で聞くと、そのスケールのなさに我慢できない。バッハの管弦楽組曲第2番も然り。ベートーヴェンの序曲「献堂式」に至っては、クレンペラー以外に、この曲の録音が存在して良いものだろうかとさえ思う。

そのクレンペラーが、晩年、インタビューに応じたのをまとめたのが、本書である。実は、以前「レコード芸術」誌のクレンペラー特集に引用されているのを読んだことがあったので、ある程度内容は知っているつもりだった。たとえば、「たいせつなのはオーケストラに呼吸をさせるということです」「木管がきこえるということがもっとも重要」等々。

だが、実際に読んでみると、数々の豪華な人物とのエピソードに驚かされる。

ストラヴィンスキーはとても礼儀正しく、とても親切でしたが、シェーンベルクはじつにいやなやつでした(笑い)(p164)

などというのは、現代音楽の旗手だったクレンペラーだからこそ言えることであろう。ほかにも、ヒンデミットリヒャルト・シュトラウストスカニーニフルトヴェングラーセルブーレーズといった音楽家との交友が華やかに描かれる。今のわれわれからすると、羨望のあまり溜息が出るほどだ。

しかし、本書はたんに一人の音楽家が半生を振り返った自叙伝というだけでなく、20世紀前半のドイツを知るという点でも優れている。たとえば、読者はクレンペラージンメルブロッホと交際しているのを見て驚くだろう。とりわけ、ブロッホには「彼は今日生きているもっとも古い友人です」(p100)とまで言っている。さらに、政治家では、アデナウアー(当時ケルン市長、のちに西ドイツ首相)やトロツキーまで顔を出している。ここには20世紀前半のヨーロッパがある。

なお、本書には訳注が比較的多めについており、訳文も読みやすい。少々値段が張るが、クラシック音楽好きならば読んでおいて損はしない本だろう。

 

 

クレンペラーとの対話

クレンペラーとの対話

 

 

 

Symphonies & Overtures

Symphonies & Overtures

 
ベートーヴェン:荘厳ミサ曲

ベートーヴェン:荘厳ミサ曲

 
バッハ:管弦楽組曲全曲

バッハ:管弦楽組曲全曲

 

 

C.サイフェ 『異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』

「どんな数でもゼロを掛けると、答えはゼロである」 学校ではそう習った。そういうものとして。けれども、どうしてそうなるのだろう? 

プログラミングでは「ゼロ除算」への注意書きをよく見かける。たしかに危険な香りがする。だけど、なぜゼロで割ってはいけないのだろう?

本書はそんな不思議な数字「ゼロ」についての物語。

前半(第4章まで)は、数学というよりも哲学の話。「ゼロ」を受け入れたインド。それに対して、「ゼロ」や「無限大」を忌み嫌ったアリストテレス。彼の哲学を取り入れた中世キリスト教神学(トマスアクィナスによって頂点に達する)もまた「ゼロ」や「無限大」を否定した。「ゼロ」を認めることはアリストテレス哲学を、ひいてはそれに基づく天動説を、神の存在の証明を否定することになるから。

一方、後半は数学や物理学の話。ニュートンライプニッツによる微積の発明、複素平面リーマン球相対性理論量子理論ひも理論ビッグバン… 文系人間には辛いし、説明もやや簡略に過ぎる感がある。とくに、ひも理論以降は抽象的な説明が多いように感じた。

文体はいかにも海外の本だなと思わせるやわらかさ。エピソード重視というのも「読み物」らしくていい。例えば、ピュタゴラスの異常さとか、パスカルが確率に基づき神を信じる方がいいと言ったとか、ルターが便秘だったとか。

前提知識は要らないけれども、いずれかの領域(哲学、キリスト教、数学、物理学、天文学)を他の本でかじっておいた方が読みやすいと思う。

異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念

異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念

 

 

 

 

 

 

 

鈴木大拙『禅とは何か』

宗教とは何か。そもそも日本においてどの程度の人が宗教意識を持っているだろう。「葬式仏教」という言葉があるように、冠婚葬祭や観光以外で寺を訪れる人は少ないだろう。クリスマスにはケーキを食べ、年が明けると寺社に初詣をする日本人は、良くいえば宗教に寛容であるが、悪くいえば宗教に無頓着である。

かく言うわたしも特定の宗教を信じているわけではない。高校は仏教系だったが、それは偶然だった。大学はキリスト教系であったが、いわゆるミッション・スクールではなかったから、教会へ通うということはなかった。

しかし、講義で贖罪思想に感銘を受けるということはあったし、精神的に不安定なときに聖書を開くと気持ちが落ち着いた。だから、キリスト教にはずいぶん親しみを持ったといえる。

一方、仏教には「難解」というイメージしか持たなかった。それまでに蓄積された嫌悪感のせいかもしれないが、「色即是空」のような抽象的なことばかり聞かされては親しみの持ちようがない。

その点、本書はまず「宗教とは」「仏教とは」から論じており取っつきやすい。しかも、もとが講演の速記だからか、昭和初期の本にもかかわらず、とても読みやすい

大拙がとくに強調しているのは「宗教経験」と「社会意識」である。前者は大拙の親友である西田幾多郎との関係でも重要とされる。とはいえ、「宗教の本体を形成する最も重要なる要素」「実に宗教をして可能ならしむるものは、この個人的宗教体験であ」る(12ページ)とされているものの、実はこれは他人から説明されて理解できるものではない(し、またそうあるべきでもない)ことが明らかにされ、読者は宙に投げ出される。しかし、そのことを最も詳しく論じている第二回第三講は、何度読んでも面白い。

神秘ということは、(中略)了々として雪の響き、雨の声を聞くことができるのであるが、しかもそれを現すことができない(199ページ)。

もちろん、私はこの意味を深く理解できたわけではないが、何気ない音や風景に、そのもの以外の “何か” を感じたことはある。宗教の面白さは論理では説明できないところにあるのだろう。

「宗教経験」が個人的なものとすると、それと対になるのが「社会意識」である。大拙は釈迦が当初自分だけが救われればいいと考えていたのを弟子に促されて他の人へ説法することにしたというエピソードを再三引用している(46・58ページ)。そして、自分一人が救われればいいとする小乗仏教(羅漢)が、禅を含む大乗仏教では自分だけでなく社会をも救う菩薩を理想とするように変化してきたと強調している。宗教経験を重視するあまり、ともすれば個人主義に傾きがちな状況に大拙は警鐘を鳴らしたといえるし、彼が海外へ禅を普及するのに熱心だったのも、この「社会意識」のためだったように思われる。

最後に、大拙近代批判を取り上げておきたい。大拙は近代の弊害として、「人間が機械をこしらえて、いい顔をしている間に、その人間が機械になってしまって、その初めに持っていた独創ということがなくなってしまう」(100ページ)ことを挙げている。そして、そこから逃れるには、「常に独自の世界を開拓して、そこに創造の世界、自分だけの自分独特の世界を創り出して行く」宗教によらなければならないと主張している。大拙が宗教経験を重視したこと、そして近代の源である西洋に禅を普及することに熱心だったこと、これらはすべてこの近代批判に由来するように思われる。

なお、本書を読むにあたって、とくに前提知識は必要ない。ただし、浄土真宗やキリスト教(とくに中世ドイツ神秘主義)を知っていると読みやすいだろう。

 

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)