K.マルクス 『賃労働と資本』『賃銀・価格および利潤』

あなたの賃金(給与)*1は、どのようにして計算されているのだろう? 「どれくらい働いたかによって決まるんだろ? 常識だろ。」

では、あなたの目の前にある商品の価格は? 「原材料費や人件費などの生産費に、利潤を足したんだろ? 常識だろ。」

「そんなのは常識ではない」。こう言い放つのがカール・マルクスである。つまり、マルクスによれば、賃金を決めるのは労働時間の長さではないし、利潤は生産費に上乗せするものでもないというのである。

では、現実にはどうなっているのだろうか。その説明は実際に本人が書いた文章を読んでみるのが、一番早く、かつ確実である。とくに、ここで挙げる著作はいずれも大著資本論』への入門書と言われているものである。

とはいえ、マルクスの文章はお世辞にも読みやすいとはいえない。*219世紀のヨーロッパ世界を前提にしているためということもあるが、とくに、『賃銀・価格および利潤』は、別人の主張に対する反論という体裁を取っているため、とても読みにくい。

だから、あらかじめ、結論だけでも知っていると、ずいぶん読みやすくなるだろう。すなわち、わたしたちの労働のすべてに対して賃金が支払われているわけではない(賃金が支払われていない労働が存在する!)というのが、マルクスの結論である。

この結論に、マルクスは「剰余価値」というものに気づくことでたどり着いた。実は、『賃労働と資本』を書いた時点では、マルクスはまだ完全には気づいていなかった。それは恐慌論で文章が終わっていることに象徴的である。

一方、『賃銀・価格および利潤』では、剰余価値搾取の意味であることが明らかとなり、(読者が賛成するかどうかは別にして)賃銀制度の廃止という政治的主張で確信をもって締めくくられている。その読みにくさにもかかわらず、後者を読まなければならないのは、マルクスの最終到達地点がそこにあるからであろう。

最後に、随所でマルクスは人間と機械の違いを強調しているが、もっとも印象的な箇所を引用しておきたい。

「時間あってこそ人間は発達するのである。勝手にできる自由な時間のない人間、睡眠・食事・などによる単なる生理的な中断は別として全生涯を資本家のための労働によって奪われる人間は、牛馬よりも憐れなものである。彼は、からだを毀され、心をけだもの化された、他人の富を生産するための単なる機械である。」(『賃銀・価格および利潤』、岩波文庫、p107)

なお、マルクスの日本語訳によくあることだが、前書きや序言の類は読み飛ばして問題ない。というか、政治色の強い旧ソ連の研究所の序言こそ読み飛ばさなければ、ソ連崩壊後の現代に、あえてマルクスを読む意義がまったく分からなくなるであろう。ちなみに、岩波文庫版を訳した長谷部文雄は、河上肇の高弟であり、『資本論』を完訳したことで知られている。

 

 

賃労働と資本 (岩波文庫)

賃労働と資本 (岩波文庫)

 

 

 

賃銀・価格および利潤 (岩波文庫 白 124-8)

賃銀・価格および利潤 (岩波文庫 白 124-8)

 

賃労働と資本/賃金・価格・利潤 (光文社古典新訳文庫)

賃労働と資本/賃金・価格・利潤 (光文社古典新訳文庫)

 

*1:「賃金」でなく「賃銀」となっていても意味は大差ない

*2:哲学出身で凝ったレトリックを使った文章を書く人だし、余談だが悪筆でも有名

久米郁男 『原因を推論する』

「起承転結でレポートを書いてはならない」 ― 中国政治の先生はそう厳しい口調で言った。「レポートを書くときは、帰納法演繹法でなければならない」

本書は政治学の方法論について、とくに因果関係(「原因=独立変数」と「結果=従属変数」)に重点を置いて論じた本である。著者が政治学者であるため、政治学に特化したネタも多いが、方法論自体は社会科学全般に通じる普遍的なものである。そのため、政治学以外の社会科学(経済学や社会学など)を専攻している人が読んでも、十分理解できる内容であろう。

高根正昭やキング=コヘイン=ヴァーバが方法論について述べた著作を踏まえつつ、著者は数々の事例を題材に、どういった点に気をつけて研究すべきかを論じていく。計量分析を専門とする著者らしく、とくに統計データを用いた分析については、かなり詳しく論じられている。

といっても、随所に「詳しくは統計学の参考書で学んでほしいが」という表現が表れるように、本書を読んだからといってすぐに現実の分析ができるようになるわけではない。むしろ、著者の意図は、実際に分析しようとする前に知っておくべき事柄を伝えることにあるのだろう。

そのせいだろう。本書は教科書的でありつつも、どこかエッセーのようである。実際、著者の講義を受けたことのある人ならば、その機知に富んだ話し方を文章から思い出すこともできる。そういう意味では、ある程度、社会科学を勉強した人があらためて方法論を学ぼうとする際に、最初に読むと便利な本であろう。

最後に、個人的には、縦書きよりも横書きのほうが読みやすかったのではないかと思う。統計データを駆使するという本書の性質上、文中に数字が多く出てくるのだが、縦書きの漢数字では読みにくく感じるからである。

 

 

原因を推論する -- 政治分析方法論のすゝめ

原因を推論する -- 政治分析方法論のすゝめ

 

 

 

創造の方法学 (講談社現代新書 553)

創造の方法学 (講談社現代新書 553)

 

 

 

社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論

社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論

 

 

島田裕巳『日本の10大新宗教』

中学生の頃のことである。中学に上がってから仲良くなった友人がいた。彼は学校のすぐ近くに住んでいたのに対し、わたしは校区の端のほうに住んでいた。

まだ仲良くなって数日しか経っていない頃である。彼からどの辺に住んでいるかと聞かれ、そういえば家の近くには目印となるような建物がないことに気づいた、某新宗教の施設を除いては。そこで、わたしは半分冗談のつもりで、その施設の近くだと言った。すると、彼はこう言ったのである。「あぁ、あそこね。親に連れられて何回か行ったことあるよ。」

気をつけるようになったのは、それからである。軽い気持ちで宗教の話を、とくに初対面(に近い人)とすべきではないということを。

本書はそんな新宗教について述べた本である。日本最大の新宗教にして政治とも関係のある創価学会や、高校野球や花火大会で有名な PL 教団をはじめとして、誰もが一度はそのうちのどれかを聞いたことがあろう。

本書の特徴は、教義そのものよりも、その新宗教が社会とどのように関係してきたかに重点を置いていることである。たとえば現世利益的な教義を掲げていると紹介されているときも、著者の視点は、なぜ人々は現世利益的な宗教に惹かれていったのかという社会的背景にある。このように、あくまでも著者は社会学であろうとしている。

もう一つの特徴は、公平な記述を目指していることである。概して、影響力が大きければ大きいほど、その新宗教に対する好き嫌いもはっきりしやすい。しかし、著者は努めて公平であろうとしている。もちろん、著者の主観的評価がないわけではない。随所に表れる著者自身が施設を訪れてみた際の印象談などはまさにそうである。だが、著者は新宗教それぞれに対して何らかの評価を下そうとはしていない。むしろ、いかに外部からは理解しにくい新宗教を社会との関わりの中で説明するかに力点を置いている。

それにしても改めて感じたのは、新宗教の難しさである。元はといえば、仏教やキリスト教新宗教だったのである。人間が常に変化し発展するものならば、どうしてその人間が信じるものも変化し発展せずにはいないだろうか。逆に、時代の要請に応えない宗教は、それはそれで問題であろう。いわゆる「葬式仏教」などはその典型で、記述的に言えば「仏教が形骸化している」という意味だが、そこには「もっと仏教は時代の要請に応えるべき」という規範的意味も含まれているのである。そう考えると、新宗教だからといって、一括りに良くないものと決めつけることはできない。

その一方で、社会的に問題を引き起こしている新宗教が存在することもまた事実である。

どのように新宗教と接すれば良いのか。この難問に即答することはできないが、一つ確実に言えるのは、相手を知らなければ、こちらの対応の仕方も分かるわけがないということである。その点、本書はバランスの取れた入門書であると言えよう。

 

日本の10大新宗教 (幻冬舎新書)

日本の10大新宗教 (幻冬舎新書)