M.ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

本書のテーマは、社会科学の研究において、いかにして「客観性」を確保するかということである。そして、「理念型」*1をはじめとする、ここで導かれた方法に基づき、翌年発表された『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などが書かれることになる。

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ヴェーバー価値(当為)*2事実(存在)*3の峻別を説いた。価値(当為)は主観的なものである。人が「当に〜を為すべし」というとき、その根拠は人それぞれである。一方、事実(存在)は客観的なものである。「〜である」というとき、それは現に目の前に存在している事物を指す*4。そして、科学は客観的なものでなければならないから、科学者は価値(当為)と事実(存在)の峻別に自覚的でなければならない。

こうヴェーバーが言うとき、ヴェーバーは価値(当為)を疎かにしているという批判が出る。しかし、実際には彼は以下のように言っているのである(p99)。

いいかえれば、なにが探求の対象となり、その探求が、無限の因果連関のどこにまでおよぶか、を規定するのは、研究者およびかれの時代を支配する価値理念である。

つまり、どういったテーマを選択するかは主観的にならざるを得ない、いやむしろ、そうあるべきである。

研究者の価値理念がなければ、素材選択の原理も、個性的実在の有意味な認識もないであろう。また、なんらかの文化内容の意義にたいする研究者の信仰がなければ、個性的実在を認識しようとするいかなる研究も端的に無意味であるのと同様、かれの個人的信仰の方向、かれの魂に映ずる価値の色彩の分光が、かれの研究に方向を指示するであろう。

ここに、ヴェーバーは自らを投影していると言えよう。ヴェーバーの生涯は、自らの中に潜む客観的(合理的)な部分と主観的(非合理的)な部分の葛藤であった*5

その上で、彼は「理念型」という手法を導入する。実際に、彼はこれを「支配の三類型」*6として用いることになるが、しかし、なにかと誤解されやすい考え方でもある。それはすでにヴェーバー自身によって注意されていた(p119 ~ 120)。なお、ここで何度も出てくる「実在」はひとまず「現実に存在するもの」と考えて良いだろう*7

理念型は、ひとつの思想像であって、この思想像は、そのまま歴史的実在であるのでもなければ、まして「本来の」実在であるわけでもなく、いわんや実在が類例として編入されるべき、ひとつの図式として役立つものでもない。

理念型はむしろ、純然たる理想上の極限概念であることに意義のあるものであり、われわれは、この極限概念を規準として、実在を測定し、比較し、よってもって、実在の経験的内容のうち、特定の意義ある構成部分を、明瞭に浮き彫りにするのである。

こうした概念は、現実に依拠して訓練されたわれわれの想像力が適合的と判定する、客観的可能性の範疇を用いて、われわれが連関として構成する形象にほかならない。

「理念型」はあくまでも道具である。目の前の事象を客観的に論理的に理解するために作られたものであって、それがそのまま目の前の事象を表しているわけではない*8

今風に言えば、「理念型」は「モデル」と考えても良いかもしれない。経済学では「合理的に行動する経済人」を前提とするが、実際には、合理的に経済活動をする人間ばかりではない。しかし、もし、合理的経済人モデルで経済事象を論理的に説明することができるならば、それはある程度までは有用なのである*9

最後に、マルクス主義について言及している箇所(p141)を引用しよう。マルクスを「偉大な思想家」と言いつつ、終生、ヴェーバーマルクス主義に対して、複雑な立ち位置を示していた。

すなわち、マルクス主義に特有の、すべての「法則」や発展構成は、ー 理論的に欠陥のないかぎり ー 理念型の性格をそなえているということである。この理念型を実在との比較に用いるばあいには、索出手段として卓越した、それどころか唯一無二の意義を発揮すること、それと同時に、そうした理念型が、(中略)実在の(ということは、実は形而上学的な)「作用力」「発展傾向」などと考えられるや否や、いかに危険となるか、ということは、かつてマルクス主義的概念を取り扱った人なら、誰でも知っている。

なお、本訳書は半分以上を補訳者の「解説」が占めている。それはそれでありがたいのだが、本来、訳注に相当するようなもの(人名解説など)まで「解説」に含まれているため、かえって読みにくく感じられた。また、全体を通して、補訳者の主張が前面に出ていることには注意したほうが良いであろう。

 

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

 

 

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

 

 

*1:ドイツ語で Idealtypus。英語では Ideal type。

*2:ドイツ語で Sollen。ドイツ語の助動詞 sollen は英語の助動詞 should に相当し、Sollen はそれを名詞化したもの。

*3:ドイツ語で Sein。ドイツ語の動詞 sein は英語の動詞 be に相当し、Sein はそれを名詞化したもの。

*4:目の前にある A という物体を指して、"That is A" と言うとき、それは会話をする双方ともに A が見えていること(客観的に理解可能であること)を意味する。

*5:ヴェーバーの “病歴” については、山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』参照。

*6:「伝統的支配」「カリスマ的支配」「合理的支配」の 3 つ。詳しくは『職業としての政治』を参照。

*7:ここで「実在」として訳されている Wirklichkeit は、どの独和辞典でも「現実」として訳されており、英語の reality に相当するように思われる。

*8:「支配の三類型」に即して言うと、現実には「伝統的支配」と「カリスマ的支配」が混在している場合などがありうる。例えば、私見では、北朝鮮金正日時代までは「カリスマ的支配」であったが、徐々に「伝統的支配」の比重が強まっているように思われる。

*9:合理的経済人モデルでは説明がつかないことが増えたがために、行動経済学が現れてきたのだろう。

渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』

本書は、ルネサンス期フランス(16 世紀)に活躍した 12 人の生涯を紹介するものである*1。その中で、高校世界史で取り上げられる人物としては、ブルボン王朝の初代アンリ 4 世イエズス会*2の創始者イグナチウス・デ・ロヨラが含まれている。あるいは、一般には、ノストラダムスのほうが興味を持たれるかもしれない。

しかし、本書の中心は、そのページ数からいっても、また関連する人物の多さからいっても、ジャン・カルヴァンであろう。そして、カルヴァンの暗部を知ることは、「いま」のわれわれにとって決して無駄なことではない、むしろきわめて現代的な問題を提起しているように思われる。

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宗教改革の指導者としてマルチン・ルターと並び称されるカルヴァンは、しかしルターほど一般には有名でないように思われる。なんといっても、ルターは身命を賭して 95 ヶ条を門扉に貼りつけ、宗教改革を始めた人物である。それに比べると、ジュネーヴで神政を行った」というカルヴァンは地味な存在であるといわざるを得ない。

あるいは、かりにカルヴァンが取り上げられることがあったとしても、それはヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』との関連においてであろう。この社会科学の古典において、ヴェーバーカルヴァンの唱えた予定説がいかに資本主義発展の一因になったかを論じた。しかし、この場合でもカルヴァン生涯について触れられることはないように思われる。

「もしセルヴェにしてジュネーヴへ潜入すれば、断じて生きてはこの地を去らせまい」(J. カルヴァン*3

宗教改革のなかにある悪寒を起させるような、いらいらさせるような、暴君的なものの一切が、カルヴァンにある」(A. ディード)*4

カルヴァンの生涯中暗澹たる日は、セルヴェの死の日である。しかし、……死刑は、カルヴァンのみの特別な過失ではなかった。これは時代の過失であった」(E. ドゥメルグ)*5

カルヴァンおよびカルヴィニスム、またカルヴァンをかく硬化せしめた当時のカトリシスム、またその時代、これらに一切の罪はあるのでしょう。更に広く申せば、人間に罪があるのでしょう」(渡辺一夫*6

これらの引用はすべてカルヴァンがミシェル・セルヴェを火刑に処した事件(1553 年)に関するものである。セルヴェはスペイン出身の神学者で、三位一体や幼児洗礼を否定する過激な主張を行っていた。こうした教義はカトリックプロテスタントも共通して信仰している基本的な教義であったため、セルヴェは双方から批判されていた。

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しかし、本来、カトリックや世俗権力に対して信仰の自由を、すなわち寛容さを求めるところからスタートしたのがプロテスタントであった。事実、若きカルヴァン古代ローマの哲学者セネカの『寛容について』*7の註釈本を出版していた。

にもかかわらず、ジュネーヴで権力を握ったカルヴァンは、自らの思想に反する人物をことごとく断罪するという不寛容さを示すようになった。この背景には、ジュネーヴに対して激しい攻撃を加えていたカトリック*8から身を守るためには、プロテスタント内部での分裂を許すことができなかったからではないか、という見方を渡辺氏は示している。しかし、たとえそうであったとしても、カルヴァン寛容を求める立場から不寛容を強いる立場へと変化したことは批判されなければならないであろう。なお、本書の最終章は、途中までカルヴァンを支持しつつも、のちにその不寛容を批判してジュネーヴを逐われたセバスチヤン・カステリヨンの紹介に当てられている。この配置からも、渡辺氏の主張は理解できるであろう。

さて、「いま」のわれわれは、本書から何を汲み取ることができるのであろうか。

まず第一は、寛容の重要性である。ここでは当時のカトリックのように不寛容を貫いた場合がまず想起されるであろう。しかし、カルヴァンのように、当初寛容を求める立場だったのが、不寛容を強いる立場へと変化する場合もあることに、われわれは注意しなければならないだろう。

第二は、批判精神を持つことの重要性である。カトリックの不寛容を批判したカルヴァンも、そのカルヴァンが途中から不寛容に転じたことを批判したカステリヨンも、あるいは当時のユマニスム(ヒューマニズム)全体が、その後の近代の土台となったといえる。っして、このことからは、批判の中にその姿勢を正すものがあるならば、それを排斥せずに真摯に受け入れるという寛容さがやはり求められるであろう。*9

最後に、渡辺氏によるユマニスムの定義を引用しておきたい。

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[ユマニスムは] 人間が人間の作った一切のもののために、ゆがめられていることを指摘し批判し通す心にほかなりません。従って、あらゆる思想のかたわらには、ユマニスムは、後見者として常についていなければならぬはずです。なぜならば、あらゆる人間世界のものと同じく、人間のためにあるべき思想が、思想のためにある人間という畸形児を産むことがあるからです。[…] ユマニスムの <<反骨性>> というようなことが言われますが、ユマニスムは、批判のための批判に終始するものでもなく、臍曲りでもなく、また世をすねたところや、反抗的なところを看板にすべきものではありますまい。ユマニスムは、思想や制度に附き添う注意深い母親なのです。 *10

 

 

フランス・ルネサンスの人々 (岩波文庫)

フランス・ルネサンスの人々 (岩波文庫)

 

 

 

痴愚神礼讃 (中公クラシックス)

痴愚神礼讃 (中公クラシックス)

 

 

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

 

 

「常識」としての保守主義 (新潮新書)

「常識」としての保守主義 (新潮新書)

 

 

*1:わたしが最初に著者渡辺一夫を知ったのは、エラスムス痴愚神礼讃』の訳者としてであった。フランス語からの重訳であるにもかかわらず、名訳の誉れ高く、現在も「世界の名著」を経て「中公クラシックス」で入手可能である。しかし、わたしが読んだのは 1954 年刊行の岩波文庫であった。その旧字旧仮名遣いの岩波版も、来る 2 月に復刊される 予定 である。

*2:日本にキリスト教を伝来したフランシスコ・ザビエルロヨラの直弟子。なお、現ローマ教皇フランシスコは初のイエズス会出身教皇

*3:『フランス・ルネサンスの人々』p212

*4:『フランス・ルネサンスの人々』p220

*5:『フランス・ルネサンスの人々』p220

*6:『フランス・ルネサンスの人々』p220

*7:ラテン語原題は "De Clementia"。「セネカ哲学全集」(岩波書店)では「仁慈について」と訳されている。

*8:当時はカトリック側がプロテスタント側を大量に虐殺した「サン=バルテルミの虐殺」(1572 年)やドイツの「三十年戦争」(1618 〜 48 年)のように宗教間の戦争が絶えなかった。

*9:およそ主義・思想において、最初から完全なものはあるまい。むしろ、批判を受けとめ、それを取り込みつつ、弁証法的に発展するのが、主義や思想のあるべき姿ではないだろうか。しかし、現実の政治においては、しばしば主義や思想の動脈硬化が進行した。フランス革命におけるロベスピエールの暴走、共産主義における数々の逸脱行為(スターリン毛沢東らへの極端な個人崇拝、同じ共産主義者内での内ゲバなど)はあらためて言うまでもない。当初は気高い理念を掲げていた彼らの堕落にはカルヴァンの姿が重なる。しかし、フランス革命を批判した E. バークを「保守主義の祖」と仰ぐ保守ならば、その危険を免れるのであろうか? そうではないと極言したい。保守主義もまた自らに寄せられた批判に対して不寛容ならば、誤った路を突き進む可能性がある(それは本来の保守主義ではないだろうが、しかし保守主義共産主義者同様に堕落する危険があることは指摘されるべきだろう)。そして、それを「いま」批判している側もまた、無意識のうちに、敵と同様に不寛容な姿勢を取っていないかを常に自己批判する必要があろう。

*10:『フランス・ルネサンスの人々』p282

F.エンゲルス 『家族・私有財産・国家の起源』

マルクス主義は「下部構造が上部構造を規定する」とよく言う。ここで、下部構造とは経済のことであり、上部構造とは政治や文化などのことである。つまり、「下部構造が上部構造を規定する」とは「経済がすべてを規定する」という経済決定論のことである。

裏返すと、経済を完全に分析することができれば、すべてを理解したことになる。「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」*1。だからこそマルクスは資本主義を分析することに全力を傾けたのである。

しかし、かれらの最終目標は「革命」であった。革命とは国家(政治体制)をひっくり返すことである。この高度な政治的行為に対して、しかし、マルクスは体系だった国家論をついに書かなかった。

そこで、マルクスの親友エンゲルスの書いた本書を読む必要がある。それにしても、この奇妙なタイトルはなんだろう? 三者の関係性が今ひとつわからない。

実際、比重はかなり「家族」に傾いている。当時最新だったアメリカの先住民に関する研究成果も参照されており、文化人類学に関心がある人は興味深く読めるだろう。

しかし、何よりも注目すべきは、女性の解放を説いた部分である。エンゲルスによると、もともと、古代社会では女系優位だったが、財産が氏族の共同所有から私的所有へと発展し、家庭外での夫の稼ぎが増えたことで、夫が妻に対して優位を主張するようになり、男系優位へと変化していったという。

母権制の転覆は、女性の世界史的な敗北であった。*2男子は家庭内でも舵をにぎり、女子はおとしめられ、隷従させられ、男子の情欲の奴隷かつ子どもを生む単なる道具となった。(新日本出版社、p79)

いまや畜群その他の新しい富とともに、家族の一つの革命が起こった。生計稼得はいつも男子の仕事であったし、生計稼得のための手段は男子によって生産され、男子の財産であった。だから、家畜は彼のものであり、家畜と交換して得た商品と奴隷は彼のものであった。(p218)

「粗暴な」戦士かつ猟人は、家庭では女子に次ぐ第二の地位にあまんじていた。「より柔和な」牧人は、その富をたのんで第一位にのしあがり、女子を第二位におしさげた。(p218)

女性は解放されなければならない。そのためには、女性の社会進出が必要だという。

女子の家事労働は、今では男子の生計稼得労働に比べて影のうすいものとなった。後者がすべてであり、前者はくだらないつけ足しであった。ここにすでに、女子が社会的な生産的労働からしめだされて、私的な家事労働に局限されたままであるかぎり、女子の解放、男子との女子の対等な地位は不可能であり、今後も不可能であろうということが示されている。(p218)

こうして、マルクス主義は、社会だけでなく家庭内にも階級を発見することとなった。

夫は、家族のなかではブルジョアであり、妻はプロレタリアを表す。(p102)

一方、「国家」については、第9章まで本格的には論じられない。レーニンが書いた『国家と革命』では、本書が盛んに引用されているが、それはすべて第9章からである。

どのようにして国家は成立したのか。

まず、「商業の拡大、貨幣と貨幣の高利貸付、土地所有と抵当権にともなって」(p225)社会がさまざまな階級に分裂した。それによって、財産の共同所有と平等を特徴とする氏族制度は崩壊してしまった。そして、氏族制度に代わって、階級間の利害対立を止める制度が必要になった。そうして成立したのが「国家」だという。

国家はむしろ一定の発展段階で社会が生み出す産物である。それは、この社会が、解決不可能な自己矛盾におちいり、払いのける力が自分にはない、和解できない諸対立物に分裂したことの告白なのである。だが、これらの対立物、すなわち衝突する経済的利害をもつ諸階級が、むだな闘争のうちにわが身とこの社会とを消耗しつくすことがないようにするのには、外見上社会の上に立ってこの衝突を緩和し、それを「秩序」の枠内にとどめておくための一権力が必要になった。そして、社会から生まれでながら社会の上に立ち、社会にとってますます疎遠なものになっていくこの権力が、国家なのである。(p228-9)

階級間の利害対立を止めるために作られた制度である以上、国家を主導するのは経済的に社会を支配する階級であるという。

国家は、通例、もっとも勢力のある、経済的に支配する階級の国家であって、この階級がこの国家を媒介として政治的にも支配する階級となり、こうして被抑圧階級を制圧し搾取するための新しい手段を手に入れるのである。(中略)近代の代議制国家は、資本が賃労働を搾取するための道具なのである。(p231)

これが、その後のマルクス主義における「国家」の定義になった。

「国家」の定義づけに続けて、エンゲルス(そしてレーニンも)は資本主義は不可避的に滅亡する運命にあり、「これらの階級の滅亡と同時に、国家も不可避的に滅亡する」と主張した(p233)。

しかし、現実に革命が起きた国々を見ると、「国家」はなくなるどころか、むしろ強化されていっているようにすら思われる。なぜそうなってしまったのか。それは単純に「理性の狡知」では片付けられない問題であろう。

なお、現在、邦訳で手に入るのは、残念ながら、共産党系の新日本出版社が発行しているもののみである。

 

 

家族・私有財産・国家の起源 (科学的社会主義の古典選書)

家族・私有財産・国家の起源 (科学的社会主義の古典選書)

 

 

 

家族・私有財産・国家の起源―ルイス・H・モーガンの研究に関連して (岩波文庫 白 128-8)

家族・私有財産・国家の起源―ルイス・H・モーガンの研究に関連して (岩波文庫 白 128-8)

 

 

 

国家と革命 (講談社学術文庫)

国家と革命 (講談社学術文庫)

 

 

*1:ヘーゲル『法の哲学』より

*2:太字は引用元における傍点